2016年03月28日

ニコンF


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このカメラほど伝説の多いカメラはないだろう。1959年登場の「ニコンF」である。以前もブログに書いたが、日本を世界に冠たる一眼レフ大国へと押し上げた最大の功労者。ライカM3に対抗すべく開発されたニコンSPであったが、やはりライカには太刀打ちできなかった。急遽取り掛かった(らしい)F開発の内情はわからないが、メカニカルに関してはSPと共通する部分も多い。レンジファインダーに比べ豊富なレンズバリエーションと高い耐久性を誇るFのボディは、とくに報道関係者に歓迎され、あっという間に「報道のニコン」のイメージが世に植えつけられた。東京オリンピックで報道席にずらりと並んだニコンFはまさに圧巻であった。

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Fは登場以来約15年間の長きにわたり製造が続き、一説によると90万台近く売れたらしい。その間、ボディの意匠は少しずつ変化を遂げ、最終的には写真の「F」になった。

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70年代になると後継機種のF2へバトンタッチされるのだが、数年間はF2と併売された。F2は機能的にもデザイン的にもFの無骨さをソフィストケイトしたわけだが、Fの信頼性、使用感に慣れたカメラマン達にすぐには受け入れられなかったと聞いている。シャッターボタンの位置は人間工学的に見てもF2の方が断然押しやすいのだけど「長年使ったFのために指が曲がってしまった」というのは有名な話である。この話、事実なのかどうかはわからないけど、そのような逸話、実話が山のようにあるのがニコンFというカメラなのである。

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直線基調のデザインは見ていて飽きが来ない。いつまでだって見ていられる(笑) すでにフィルムを消費することがなくなってしまったが、歴史的名機を手放す気にはならないのである。
posted by 生出 at 22:27 | Comment(2) | フィルムカメラ

2016年03月08日

キヤノンフレックスRP


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1954年(昭和29年)のフォトキナで1台の衝撃的なカメラが発表された。云わずと知れたライカM3である。その完成度の高さに日本のメーカーは完全に万歳。一眼レフカメラ開発にシフトする大きなきっかけとなった事件であった。1955年以降、日本の各メーカーから一眼レフの開発と発表が続いたわけだが、1959年(昭和34年)、ニコンFが発表されると報道関係者を中心に大きな支持を集め、それは日本を名実ともに一眼レフ大国へ押し上げる結果となる、大きな歴史的事件だった。

ライカM3、ニコンFの両機は、基本的な設計、完成度、耐久性・・・などに優れ、以降、後継機種開発に、ひとつの「思想」として連綿と引き継がれていくことになったのだ。ユーザーは「信者」と呼ばれることに何の違和感も抵抗もなく、むしろ「誇り」を持ち、ライカ教、ニコン教の布教のために尽力することとなる。

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さてキヤノンフレックスRPであるが、ニコンFから遅れること一年、1960年(昭和35年)に発表された。前年(昭和34年)にキヤノン一眼レフの第一号機「キヤノン フレックス」が発売されたが、わずか三ヶ月ほどでこの世から消えた。巻上げレバーがボディ底面にあり、三脚での撮影が不利であったのが、その理由のようだ。PRと同年には1/2000秒のシャッターを搭載した「キヤノンフレックスR2000」も発売された。ニコンF同様ファインダー交換も出来たし、スペックとしてはFの1/1000秒を上回る最高速度だったのだけど、Fを凌駕するどころか、足元にも及ばなかったようだ。アマチュアが支持していたペンタックスにも負けていた。ちなみに巻上げレバーは、相変わらず底面に位置されていた。

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キヤノンフレックスRPはR2000の簡易版としての位置づけで、固定式のファインダー、最高速度1/1000秒とスペックは抑えられていた。この時代、露出計はまだ外付けで、オプションとしてご覧のように大きく出っ張った「外部式露出計」を取り付けていた。同じ外付けでもM3用のライカメーターに比べると、デザイン的なスマートさは感じられない。デザインは度外視して、無理矢理一部屋を増築した感は拭えない。

TTLではないが、ボディに露出計が内蔵されたのは、62年(昭和37年)発売のキヤノンRM(拙ブログ2015年8月18日参照)であった。

ニコンとほぼ同じ時期にスタートしたキヤノンの一眼レフが、プロに認められるのは71年(昭和46年)のF−1からなので、まだまだ先のことであった。
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2016年03月03日

オリンパス・ワイド


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上部の丸い大きな二つのダイヤル、そしてファインダー、採光窓、エプロン部の四角、ボディも角っぽい・・・デザイン的には実にシンプルで愛嬌のある「オリンパス・ワイド」、昭和30年に発売された。

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昭和30年と云うとトヨペットクラウン、ソニーのトランジスタラジオが販売を開始した年である。国家公務員の大卒初任給が9千円弱(人事院資料)の時代、 オリンパス・ワイドは1万7千円近くもする高級カメラであった。車、電化製品、カメラ・・・少しずつではあるが、国民生活の中に「いつかは◯◯◯を手に入 れたい」と夢を描けるような時代に入ってきた。

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ライカ、ニコンなどのレンズ交換式高級カメラは別として、一般コンシューマー向けのカメラには焦点距離50ミリが固定されているものが多かった。なので35ミリ付きのこのカメラ、爆発的に売れたのだという(オリンパスのサイトより)。焦点距離35ミリはまぎれもなく広角レンズのカテゴリーに入るのだけれど、いまの感覚で35ミリレンズを「ワイド」と呼ぶには、いささかオーバーに感じるわけだが、そこは時代である。

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さて、いうまでもなくこのカメラに電池は必要ない。露出、ピント合わせ、フィルム巻上げ、巻き戻し・・・すべてが撮影者の判断にゆだねられる。ファインダーを覗いても距離計が内蔵されていないので目測で決める。フォーカシングリングの2メートルと5メートルは赤文字になっていてクリックストップする。スナップ撮影では咄嗟の判断が求められるわけだが、きっとオリンパス・ワイド使いの達人ともなると、露出もそうだろうけど、辻斬りの如くパッパッと合わせることが出来たことだろう(実際そういう人がいたかどうかは不明だけど・・・)。愛嬌のあるデザインではあるが、使いこなすにはそれなりのスキルが求められるカメラである。

露出もピントもオートという概念の無い時代、カメラの操作を身体に覚えこませる鍛錬は・・・程度の差はあれ・・・誰もが通らなければならない道であった。 ときには頭を三角や四角にすることもあっただろう。でも納得のいく写真が撮れたとき、きっとワイド使いのカメラマン達は満面の笑みを浮かべて、このカメラを撫でまわしたに違いない。
posted by 生出 at 07:32 | Comment(0) | フィルムカメラ

2016年02月17日

Petri FLEX V3


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最近、ペトリとの出逢いが不思議と多い。ペトリフレックスV3、1964年に発売されたカメラである。正面から見ると、いかにも機械式カメラだなという印象。それなりに重厚感もある。細部を見ると相変わらずペトリラしいエキセントリックなデザインが目を惹く。

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まずはペンタ部のビックリマーク似のワンポイント。これはどのようなデザイン的効果を狙ったのだろう?容易く触ってくれるな!との警告?それとも早乙女主水之介の「天下御免の向こう傷」を意識したのか?もしこのマークが主水之介と同じ三日月だったら・・・宣伝に彼(市川右太衛門)をキャラクターとして起用したら・・・。多少売り上げに貢献出来たのではと・・・。その下の数字はシリアルナンバーなのだろうが、なんとも大胆な位置に配されている。

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そしてペンタ上部の中途半端な革の張り方。磯辺餅を焼こうとしたのだけど、海苔が足りなくて餅全体を包み込めなかった・・・そんな印象を持ってしまう。海苔が足りないと餅が手について食べづらいったらありゃしない。

シャッターボタン、ダイヤル、セルフタイマーレバー、外部露出計取り付け用ガイドなどはのちのV6に、そのまま踏襲されたようだ。基本的なシルエットはV6Uまで続く。

人間関係において、ダメ出しを連発してしまうものの、なぜか憎めない奴というのがいる。本当のダメ出しとは単なる悪口ではなく、相手のことを思い、少しでも理想に近づいてほしいと云う極めてポジティブな言葉だと思っている。つまりは相手を成長させる「愛のムチ」でなければならない。しかしいま、ペトリに対してどんなにダメ出しをしたところで、床を叩くムチの音だけが虚しく響くだけなのである。かつてペトリが求めていた愛と、いま僕が求めている愛は結局のところすれ違いで成就することはないのである。
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2016年02月10日

コニカT型


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手にすると、大きさからくる印象よりもずっしりとした重みが伝わってくる。ひんやりとした金属の質感がたまらない。1948年(昭和23年)から発売された「コニカT型」で、戦後3年目にして世に出たカメラである(コニカT型の初期型はヘキサノン50ミリ F3.5付で、このカメラの開放F値はF2.8なので1950年以降に作られた改良型)。当時の価格は2万円近くもしたという。大卒初任給(国家公務員)が3000円の時代、庶民にとっては高嶺の花である。国内販売に先駆け1947年には「T型」とほぼ同じスペックの「コニカスタンダード」が対米輸出および米軍PXでのみ発売されていた。

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操作性は時代を感じさせる。フィルムの巻上げは背面のボタンを押してから巻上げノブが止まる所まで回す。巻上げのたびに、このボタンを押すわけだ。レンズは沈胴式で所定の位置まで引き出さなければならない。撮影毎のシャッターチャージも必要。これは現代でも辛うじて存在している大判カメラ用のレンズと同じである。 シャッター速度はB、1、1/2、1/5、1/10、1/25、1/50、1/100、1/250、1/500秒。ピント合わせはもちろん手動。ファインダーを覗くと二重像合致式のピント合わせが意外にもしやすい。これにはちょっと衝撃を受けた。あの時代としては格段に見やすいファインダーだ。言わずもがなだが露出計は内蔵されていない。撮影者が適切な光量をご判断の上、設定下さい、というわけである。

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ネットでこのカメラを検索すると、必ず触れられているのが「MADE IN OCCUPIED JAPAN」のことだ。米国占領下の日本で作られた製品には「OCCUPIED JAPAN」と刻印するようGHQから命じられていた。コニカT型はカメラ底部にこの文字を見ることができる(ちなみに輸出用は軍艦部に刻印されていた)。

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1952年のサンフランシスコ講和条約が発効するまでの間、北米を中心に輸出されたカメラ、陶器、おもちゃ・・・さまざまな製品に付いていた文字である。陶器などは希少価値があるようで蒐集の対象になっているらしい。

終戦直後の混乱にも関わらず、わずか数年の間に・・・数々の問題をクリアしながら・・・「ミノルタ35T」「オリンパス35T」「ニコンT型」などが量産体勢に入った。旺盛な生産意欲から苦境をもろともせず這い上がろうとする日本人の逞しさ・・・国民性・・・を垣間見る思いがするのである。設計者、製造者の誰もが平和な時代を願い「明るい未来をこのカメラで記録してほしい」、戦後間もないあの時代のカメラには、そんな思いが詰まっているのだろう。
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2016年01月08日

ペトリ1.9


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さて、またまたペトリの登場である。ペトリ1.9というのが機種名らしい。1956年生まれだから、僕よりも5歳上のお姉さんである(カメラはドイツ語で女性名詞だからね)。このシリーズではペトリ35 2.8を昨年11月に紹介したところだが、このカメラもデザイン的に惹かれるところがある。しかし機能、性能、精度については不明である。過度な期待は禁物だし、迂闊に手を出すと手痛いしっぺ返しをくらうかもしれない。ちょっと云いすぎか・・・。

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しかしなぜか手元に置きたくなるのは、やはり見た目のせいなのだろうか・・・。

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写真撮影の道具として価値が有るのか無いのか・・・それは所有者が決めることであって、外野がとやかく云うことではない。

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冬晴れのある日、ペトリを首から提げて颯爽と撮影に出かけようとしているのは宮森さんである。粋なスタイルをさらに引き締めているのは、もちろんペトリである。
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2016年01月06日

ペトリV6 ブラック


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初対面で「ホ」の字になるということは、そうあることではない(いまどきホの字なんて使わないか・・・)。ペトリV6のブラックボディである。昨年7月31日に同じV6の白ボディを紹介したのだが、そのときは心はまったくときめかなかった。しかし今回、この黒ボディと出逢って正直胸がドキドキするような気持ちになった。

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実にきれいな黒塗りである。ややつや消しっぽい感じで高級感すら感じる。たまたまそばにあったニコマートFTnとミノルタSRT101と並べてみると・・・ペトリの上質な塗装は一歩抜きん出ていた。色が変わっただけなのだけど、印象はガラリと変わる。それは車にも云えるのだが、その車種がいちばん恰好よく見える「カラー」があるわけで、V6に関しては「黒」がベスト。「白」は頭でっかちが鼻につくが「黒」は、あのAlpaにも通ずる何かを感じた。あくまでもデザインから受ける印象だが・・・。

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もしかしたらペトリに愛を覚えてしまったかもしれない。
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2015年12月07日

アーガス・モデルA


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1936年に発売されたアーガス社の「モデルA」である。

1936年といえば・・・アメリカのグラフ雑誌「Life」が創刊された年である。マーガレット・バーク・ホワイト、ロバート・キャパ、ユージン・スミス などの著名な写真家が活躍し、写真、とくにグラフジャーナリズムの祖とでもいうべき雑誌だった。人々は日常生活では触れることはない、見知らぬ世界で起こっている出来事を「Life」誌を通じて「見る」ことができた。こんにちほどメディアが発達していない時代だ。42万部刷られた創刊号はたちまちのうちに売り切れたと云う。

「Life」創刊の辞はあまりにも有名であり、グラフジャーナリズムの精神を端的に表している。すなわち「生活を見る。世界を見る。大事件を眼前に見る。 貧しき人たちの顔、高ぶれる人の姿を見る。珍しい事象・・・機械、軍隊、群衆、ジャングルの中と月の表面の蔭を見る。1000マイル離れた事物、壁の背後 や室内に隠されているもの、危険きわまりないものを見る。絵画、塔、発明発見など人間の創造物を見る。男達が愛する女達や多くの子供達を見る。見、そして見ることに喜びをもつ。そして驚くために見る。見、しかも教えられる」と(ダヴィット社「世界の写真家」重森弘淹著より引用)。

表現に、いささか古臭さを感じつつも写真と云うメディアの本質を的確に云い得ている。今日でもその精神は我々に十分に響いてくると思うのだが・・・。

そうそう、アーガスの「モデルA」であった。一見してライカ1型のようにも見えるが、似て非なるものであることは云わずもがなであろう。アーガスは米国のメーカー。残念ながらおもちゃと云われても致し方あるまい。

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2015年12月04日

FUJICA GL690 Professional/GM670 Professional


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富士写真フイルム株式会社の社名から「写真」の文字がとれ「富士フイルム株式会社」になったのが2006年10月。現在、持株会社「富士フイルムホールディングス」の下、グループ企業が展開している事業はイメージングソリューション、インフォメーションソリューション、ドキュメントソリューションの3部門。

売上高の50パーセントがドキュメントソリューション部門で、これは富士ゼロックス社の事業である。

富士フイルム社としてはインフォメーションソリューション(メディカルシステム機材、ライフサイエンス製品、医薬品、グラフィックシステム機材、フラットパネルディスプレイ材料、記録メディア、電子材料等)の売上高が約40パーセント、残りの10パーセントがイメージングソリューション(カラーフィルム、デジタルカメラ、光学デバイス、フォトフィニッシング機器、写真プリント用のカラーペーパー ※純粋に写真感光材関連の売上高は数パーセントに満たない?)となっている。

2000年には売上高の実に60パーセントが写真感光材料関連事業だったことを考えると、現在の富士フイルムグループの実体は、かつてのイメージとはかけ離れている。激動の時代を生き抜くために事業の見直し、人員・資産の整理・・・など痛みをともなう改革を断行せざるをえなかったのは致し方なかったのだろう。泣いた社員も多かったと聞いている。

というわけで富士フイルムは細胞のほとんどを入れ替え、まったくの別人格となってしまったのだ。

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フジカGL690Professional/GM670Professionalは、富士がまだ写真感光材料メーカーだった1973年に発売された中判カメラだ。フォーマットはそれぞれ6×9と6×7判。いちばんの特徴はレンズ交換が出来るという点にある。用意されていたのは「50mm F5.6」 「65mm F5.6」「100mm F3.5」「150mm F5.6」「180mm F5.6」の5本。これはなかかなに充実したシステムだった思う。当然のことながら後続機種が出るのだが何故かレンズが固定されてしまい、せっかく構築されたレンズシステムは後継機種では使えなくなってしまった。

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このカメラは観光地などで集合写真の撮影に使われることが多かった。決まった位置からしか撮影しない営業写真師にとってはレンズ交換をする必要がなかったのだろう。限られた用途に特化したカメラ故に、新しいユーザーが開拓されることもなく、このシリーズは1992年に出たフジGSW680IIIプロフェッショナルを最後に消えていった。2009年にはフジGF670プロフェッショナルという67判が出されたが、これは別シリーズであったしフィルムメーカーとしての意地(断末魔?)であった(と僕は感じた)。
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2015年11月16日

ニコンF3HP


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ニコンF3が発表されたとき、僕は18だった。スーパーニコンのキャッチコピーで華々しくデビューをしたF3は電池がなければ動かないカメラであった(いちおうエマージェンシー用として1/60の機械式シャッターは備えていた)。電池がなければ、ただの重たい金属の塊である。それでいいのかニコン!と世間は大きな驚きをもってF3を見たのである。フラッグシップ機はどんな条件、環境でもシャッターが切れなければ意味がない。世間がフラッグシップ機に求めるものはそこにあった。懐かしい角川映画、野生の証明の「タフじゃなきゃ生きていけない」なのであった。

60年代はF、70年代はF2、そして80年がF3とメーカーも謳っていたので、10年はF3とのおつきあいしなければならないと覚悟を決めた者もいたし、電池がなくても動くキヤノンNewF−1へ鞍替えした者もいたと聞いている。

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いま思えばなんとも滑稽なこだわりである。F3は80年代のみならず、登場から20年を経た2000年まで作り続けられた。そのことを見てもF3がいかにタフで、そして頼れるカメラだったかがわかるというもの。2010年、ニコンの報道発表によると・・・

「フィルムカメラおよび交換レンズをご使用いただくお客様へのサービス・サポート向上を目的として、弊社規定の補修用性能部品の保有期間終了後も対象製品の修理対応期間について、5年間延長することを決定しました。」

・・・とある。補修用部品の在庫が無くなった場合は、5年未満でも修理が出来ないとの但し書きが添えられてはいたものの、2015年、つまり今年までサポート対象になっているというのだから、これはすごいことだ。メーカーとしての心意気を大いに感じる。またまた角川映画の「やさしくなければ生きていく資格がない」なのである。

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F3にはF3HP、F3AF、F3/T、F3P、F3Hなど、用途に応じたバリエーションがあった。ビッグと呼ばれたNASA仕様のモデルもあって、これはカメラコレクターにとって垂涎の的でもあった。実際手にした人がいたのかはわからない。僕は一部をP仕様にしたF3HPを持っていた。単なる自己満足である。

僕も50代半ばになってしまったが、F3を手にすると、いまでも中野坂上での時間を思い出すのである。
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2015年11月12日

ペトリ35 2.8


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製品のデザインは時代を反映するのが常である。しかしときに新製品でありながらレトロなデザイン・機能を搭載した製品がウケることもある。ランクル70が期間限定ながら販売されたり、デジタル一眼レフにかつてのシルエットを取り入れたり(オリンパスOM−DシリーズやニコンDf)と、単に懐かしさだけではなく、そこに機能美を感じさせてくれるものに人は惹かれるのである。

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ペトリ35 F2.8は1955年に発売されたカメラだ。スペックについては触れないが、このカメラの最大の武器はデザインではないか、と思っている。中古カメラの並ぶ棚の中でひときわ目立っていたのがこのカメラだった。僕にはそう見えたのだ。

手に取ると思ったよりも重量感がある。いかにもカメラ!というデザインがいい。知り合いの写真家も「このカメラでスナップを撮りたい」と絶賛していた。 まぁ〜古いカメラなので実際使ってみると、いろいろ不具合・不都合はあるだろうが所有欲を満たしてくれるだけでもいいのかな・・・と。

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ペトリの一眼レフにデザインの良さはまったく感じなかった。とても同じメーカー作ったカメラとは思えない。戦後、ライカに負けないカメラを作ろうと各メー カーがしのぎを削ったわけだが、けっきょくライカを超えることは出来なかった。活路を一眼レフに見出した結果、ニコンFやペンタックスSPなどの名機が生まれた。もし日本が一眼レフに走らなければペトリのその後は大きく変わっていたかもしれない・・・と思ったのであった。
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2015年10月28日

コニカAUTOREX


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1965年に発売された「コニカAUTOREX」、いちばんの特徴は・・・35ミリ判フルサイズ(24ミリ×36ミリ)と、ハーフサイズ(18ミリ×24ミリ)のニ種類のフォーマット切り替えが可能なところにあった。それぞれのサイズを一本のフィルムに混在できるという夢のようなカメラである。

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フォーマットの切り替えはレバーによって行なう。フルからハーフはフィルムを巻上げてからレバーを切り替え、ハーフからフルはレバーを切り替えてから巻上げるというお約束事があった。「ハーフ」にすると左右からフルサイズをトリミングするような遮光板が現れる。これは後年、パノラマサイズ切り替えにも活かされた技術かもしれない。結局は上下、あるいは左右をマスキングしただけ・・・ではあるが・・・。

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しかし当時、機能としては優れものであると称賛だけはされたようだ。あの時代、フィルム現像代、プリント代がいくらだったか具体的には覚えていないが、いまのようなお手軽価格ではなかった。

何本もフィルムを消費するより、一本のフィルムで出来るだけ多く撮影したいと思うのは一般庶民の極めて自然な発想だった。すでにハーフ判専用のカメラは出ていたのだが、コニカとしてはフルサイズの画質を求めるユーザーと、ハーフサイズを求めるユーザーの両方を丸抱えしたかった・・・のだろう。ちょっと欲張りな企画だったかもしれない。はたしてメーカーとして成功したのかどうかはわからない。

メーカーアナウンスによると「世界初のEEカメラ」とある。レンズの最小絞り値の脇に「EE」の表示がある。絞りリングを「EE」にセットすれば、シャッタースピード優先の自動露出カメラとなる。ちなみにEEとはElectric Eyeの略。この時代はAE(Automatic Exposure)という表記より、こちらのほうが多かったように記憶している。「EE」に時代の最先端を行く響きを、なんとなく感じたものだ。

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あれから半世紀。すでにフィルムを使うユーザーも激減し、新しいフィルムカメラ、ましてやハーフ判を求める声など聞こえてこない。「ニューハーフを!」などと声高に叫ぶと、ぜんぜん違う意味に捉えられてしまうのだから時の流れとは恐ろしいものである。
posted by 生出 at 06:20 | Comment(0) | フィルムカメラ

2015年10月26日

ヤシカREFLEX35


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かつて「ニッカ」というカメラメーカーがあった。ヤシカに吸収されてから産まれたのが「ヤシカREFLEX35」で1961年頃発売されたらしい。なにぶんむかしのことだし、ネット上にも参考になる情報はあまりなかった。「ニッカ」はライカのコピー機を製造していて、職人気質で創られたカメラは人気があった。このカメラにもニッカ魂が生かされているようで、手にしてみると創りこみの良さを感じる。

「ヤシカREFLEX35」には兄弟機とおぼしき「ヤシカPENTA」というカメラもあったようだが詳細はわからない。 ペンタ部のシルエットは、どことなくニコンFを意識したデザインにも見える。

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レンズマウントはM42のスクリュー。露出計は内蔵されていない。「J」の部分はオプションの露出計をセッティングするためのスペースである。

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レンズに付いているやや大きめのレバーを下まで引き下げると絞り羽根が開き、ピント合わせがしやすくなる。シャッターを押すとセッティングした絞り値に羽根が戻る。なので5.6とか8で撮影すると、シャッターレリーズ後にファインダーがかなり暗くなってしまう。いちいちこのレバーを押し下げてファインダーを明るくしなければならなかった。 もちろん、暗いままのファインダーでピントを合わせても一向にかまわない。

当時としては、この機能も画期的だったのだろう。メーカーやグレードによって、搭載される機能に差はあるのだが、撮影者の利便性を考えて創られた様々な機能に、どことなく暖かさを感じるのは、アナログカメラだからだろうか。
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2015年09月29日

ミノルタSRT101(白ボディ)


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前回紹介したのはSRT101の黒ボディだったが、昨日何気なく脇を見てみると白ボディが秋の日差しに輝いていた(いったいどんな状況?)。薄汚れたボディをアルコールで拭いてやると、なんだか新品に近い色艶を放つではないか。

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いかにも一眼レフらしいフォルムがいい。しかしジャンク品で900円の値札が付いていた彼が、今後誰かの手に渡ることもないのだろうなぁ〜。この輝きが永遠・・・とまではいかないくても、いま暫くは続いてほしいと願いつつシャッターを押したのであった。
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2015年09月25日

ミノルタSRT101(黒ボディ)


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SRT101、ミノルタの名機である。発売は1966年(昭和41年)なので前出のファーストロール(1933年)に比べれば、それほどむかしという感じはしない。もちろんつい最近でもないのだが・・・。でも僕がこの世に生を受けてから出たカメラにはどうしても親近感が湧いてしまうのである。同時代を生きている同志のような気がして・・・。そこまで云うとちょっと眉唾かな?

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さてスペックを見てみると実にシンプル。シャッタースピードは1〜1/1000、Bのみで必要十分。測光方式は CLC(Contrast Light Compensator)というもので、二個のCdsで画面の上下を測り、その平均値を割り出すという独自のもの。オート機能ではないが、露出計が示した針の位置がいちおうカメラが計算した適性露出ということになる。風景写真などで、空が明るすぎたときに全体がア ンダー気味になりがちだが、補正した値を示すという、当時としては画期的な測光方式だった(らしい)。晴天時、画面に太陽が入れば+補正をしなければと意識するのだが、以外に落とし穴なのが曇天の時。光が柔らかいので、うっかり空を多めに入れてしまうと人物の顔が真っ黒、なんてこともある。そんなときに SRT101なら重宝したのかもしれない。実際のところ、どの程度の精度だったのかは不明だけど・・・。

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キヤノンFTb、ニコマートFTn同様、SRT101は馴染みの飲み屋でいつも見かける常連のようなものである。つまりは中古市場において常連なのである。数の多さから現役時代、いかに売れたかがわかるというものだ。いま店頭で出会う彼らは露出計が動かなかったり、ファインダー内が汚かったり、そのほか いろいろ動作が挙動不審だったり・・・問題を抱えた固体が多い。彼らの行く末に思いを馳せると、ちょっぴりセンチになってしまう秋の夜なのである。
posted by 生出 at 23:32 | Comment(0) | フィルムカメラ

2015年09月24日

ファーストロール


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これまでにいろんなカメラを触ってきてが、実際手にしたカメラの中で年代的に一番古いのがこのカメラだ。1933年発売の「ファーストロール」である。製作は後のペトリこと栗林写真機械制作所で、販売は皆川商店が行なった。1933年(昭和8年)といえば僕の父が2歳で、母はまだ産まれていない。遠い遠いむかしである。

1933年の主な出来事として・・・日本が国際連盟を脱退、ヒトラーが政権獲得、三陸沖大地震、アメリカで禁酒法が廃止・・・などなど盛りだくさんである。歴史教科書で近代史の項を見るようである。そんな時代のカメラ(というより写真機と云ったほうがいいか)が目の前に存在していることがなんとも不思議である。

工場から出荷され、販売店に並び、それを見た誰かが購入し、そして時を経ていま僕の目の前にあるのである。これまでいったいどれほどの人間の人生とかかわってきたのだろう?そしてどんな写真が撮られたのだろう?興味は尽きない。

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当時この種のカメラはハンドカメラと呼ばれていた。明治40年代から昭和10年代まではこのスタイルが主流であったという。誰もが気軽に写真を撮影できる時代でもなく、とうぜんカメラも高価であった。

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このカメラ、ベッド部にユーザーが作成した独自のメモリが貼付けられている。それなりに使い込まれたのかもしれない。折り畳んで収納する皮ケースのやれ具合からもそれがうかがえる。

それにしても大した風格を持ったカメラである。創造力(妄想力)のある方なら、きっとこのカメラに触発されて、ちょっとしたドラマや小説くらいは創ってしまうかもしれない。チャレンジされてはいかがですか?

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2015年08月28日

オリンパスOM-4


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OM−1(72年)、OM−2(75年)を世に出してから、オリンパスは後継機種については久しく沈黙を続けていた。OM−1、2共に一部仕様を追加したり、新たにOM二桁シリーズ(OM−10、20)を発表をしたりもしたのだが、なかなか後継機種を出さないオリンパスに、ファンは日々悶々とした思いで過 ごしていた。良く云えばオリンパスは「わが道」を歩んでいる感はあったのだが・・・。

そして突如としてOM−4がアナウンスされたのであった。1983年10月のことだ。OM−2から数えること実に8年の時間が流れていた。3ではなく4を先に送り出したのはオリンパスの何らかの戦略があったのだろう。

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最大の特徴は被写体の任意の箇所(最大8箇所)をスポット測光するとカメラが自動で適正なシャッター速度を演算するところにあった。そして白を白く、黒を 黒く表現するための「HI.LIGHT」と「SHADOW」ボタンがあり、スポット測光と併せて単体の露出計並み、いやそれ以上の評価を得たようだ。

ボディは防塵、防滴機能も兼ね備えていたように記憶している。OM−1、2のアクセサリーの互換性、巻き戻しも自動になったモータードライブ、ファインダーの視度調整も可能等、フラッグシップ機としての貫禄は十分であった。確かこの後(同時だったか?)に250ミリ(開放F値2)、350ミリ(同F2.8)という高性能レンズも加わった。ちょうど 一年後の84年にはOM−4からオート機能を取り除いたOM−3も登場し、オリンパスシステムは一機に飛躍&充実した。

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しかし85年にはミノルタからα7000が登場し、時代は一気にオートフォーカス化へと突入。オリンパスは大きく水を開けらることとなったのであった。
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2015年08月21日

キヤノンAE-1program


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連写一眼「AE−1」の大ヒットした5年後(1981年)に、同機の後継機として登場したのがキヤノンAE−1programであった。機種名を見ればわかるように機能的にはAE−1のシャッター速度優先オートにプログラムオートが追加された。A−1で好評だったパームグリップ、モータードライブMAも装 着できるようになった。下の写真を見れば両機が兄弟であることがうかがえる。

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ペンタプリズムの形状もどことなくA−1に似ている。ファインダー内の表示は暗いところでも見えるよう発光ダイオード?で絞り値が 赤く輝く。

このカメラをAE−1が発展したと見るか、はたまた多機能A−1の簡易版と見るか・・・まぁ〜どちらにせよキヤノンのいわゆるAシリーズはAV−1、AL−1とバリエーションを増やし、次のTシリーズへと展開し、そしていよいよEOSをむかえることになる。開発の内情はわからないが、キヤノンのながい歴史の中でAシリーズの貢献度はかなり高いものだろう。
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2015年08月18日

キヤノンRM


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ペンタプリズムが沈み込んだような独特なフォルムが印象的なキヤノンRM。発売されたのは1962年であった。

このカメラを見てすぐに連想したのが初代ウルトラマンに登場した「棲星怪獣ジャミラ」であった。怪獣とあるが実は元宇宙飛行士。乗っていた宇宙船が故障し、とある惑星(金星?)に不時着。この惑星は水のない過酷な環境であったが、ジャミラはこの環境に順応した身体へと変異する。

彼の祖国は国際批判を恐れ、事故そのものを隠蔽。いずれは救助に来てくれるだろというジャミラの期待は裏切られた。期待は落胆から恨みへと変わりジャミラは復讐の鬼と化す。

自ら宇宙船を直し自分を見捨てた地球に復習するために帰還を果たしたジャミラは大暴れ。結果、多くの人命が奪われる。ジャミラを倒そうと科学特捜隊は奮闘するも1000万度(いったいどんな温度?)の火を放つジャミラは手ごわい。闘いの最中、ジャミラが元宇宙飛行士であることを知ったイデ隊員がこう言い放つ。「俺はやめた。ジャミラは人間じゃないか」。しかし特捜隊のパリ本部は「彼は人間ではなく怪獣である。ジャミラを倒せ」と命令を下す。なおも暴れるジャミラにイデが叫んだ。「お前は人間の心を失ってしまったのか!」。一瞬ジャミラの動きは止まる。しかし彼の復讐心が消えることはなかった。更に破壊を続けるジャミラ。

そしてお約束、ウルトラマンの登場である。ジャミラ唯一の弱点は水であった。ウルトラマンは手から水を放つ(いったいどんな構造になっているの?)。水を浴びたジャミラはもがき苦しみ、やがて絶命する。惑星に不時着したときに、きっと欲したであろう水が弱点になってしまったのはなんとも皮肉なことだ。

埋葬されたジャミラの墓碑には「地球の英雄ジャミラ、ここに眠る」の文字が刻まれた。その墓碑を見つめるイデ隊員がこうつぶやく。「いつだってそうだ、言葉だけは立派だ」。
国家に翻弄され数奇な運命を辿った人間は山ほどいる。そして残念なことだが・・・これからもそういう人間が出ることは火を見るよりも明らかなのである。

ウルトラマン第23話「故郷は地球」、子供番組にしては深いテーマを扱ったなと思ったのであった。

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そうそうキヤノンRMだがスペックなどはこちらをご覧ください。

posted by 生出 at 08:28 | Comment(4) | フィルムカメラ

2015年07月31日

ペトリV6


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車でも、オーディオでも、ギターでも・・・そしてカメラでも○○派、あるいは△△党と自他共にそれを認めたり標榜したりすることは間々あることである。どの世界でも二大勢力があるわけで国産車で云えばトヨタと日産、カメラならニコンとキヤノン、アコースティックギターならギブソン、マーチンであろうか。それ以外のメーカーを好きになると、ときに肩身の狭い思いや悔しさを感じることがあるのだけれど、その感情は時として自分の支持するメーカーへの愛(それはときに偏愛と呼ばれる)に変わるのである。それはそれでとても素敵なことだと思う。

しかし悲しいかな、私は○○党ですと言い放つ人もいなければ、愛されることもなく単なる興味本位としての対象にしかならないメーカー、製品もある。それがペトリであると僕は思っている。これまでにペトリをメインのカメラとして使っている人を見たことがないし、話にも聞かない。いまでこそ中古のペトリを購入し、ネット上でお披露目する方もいるわけだが、それにしてもペトリの位置づけは収集したカメラメーカーの中の一メーカーとしてであって、ライブに例えれば、どんなに間違ってもセンターに立つことはないのである。いてもいなくても、どちらでもいい、まぁ〜今日はステージの右端が開いているから、ちょっとそこに立っていてよ、くらいのものである。

ペトリの歴史は古く、創業は1907年(明治40年)というから、もう一世紀以上も前の話である。栗林製作所としてスタートしたものの、1980年代末にはカメラ事業から撤退し、現在は埼玉県北葛飾で双眼鏡の生産を行っているらしい。ペトリという社名はイエス・キリストに従った聖ペテロに由来しているという。輸出を意識していたことがうかがわれる。それとも経営者がクリスチャンだったのか。そこはわからない。

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さてペトリV6であるが、1965年の販売であるからして半世紀前のカメラということになる。ルックスはご覧の通り「もーれつア太郎」に登場した「デコッ八」のようなおでこが特徴。レリーズボタンはセルフタイマーレバーのわずかに空いたスペースに斜めにセッティングされている。当時のカメラ総合カタログを見ていたら、このV6の後継機種V6Uが出ていた。スペック的にはアクセサリーシューがホットシューに変わり、あと巻上げレバーの意匠が変更になったくらいでほぼ同じだと思う。

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紹介文の中に「ヤングマンに圧倒的人気・・・」とあるが、ヤングマンっていったい誰よ?と思わず突っ込んでしまう。自ら「ヤングマンに人気」と云ってしまうところにペトリとの意識のズレを感じるのは僕だけだろか。あ〜ペトリは愛に飢えていたんだって思った。ペトリの愛はけっきょく空回りに終わってしまったんだね。だ、だれかペトリの愛を受け止めてあげて!
posted by 生出 at 06:15 | Comment(5) | フィルムカメラ