2018年01月17日

すごいぞ!ニコン!!


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どんな製品にも取扱説明書があるわけで、たいてい1ページ目には「本製品を末永くご利用くださいますよう・・・」的な一文がある。デジタルカメラにも当然その一文を目にする訳だが、次から次に発表されるデジカメの場合、末永くとはいったいどのくらいの期間なのか・・・。メーカーとしては新製品が出るたびに買い替えてくれる優良ユーザーが増えてくれることが望ましいのだろう。それが増収増益につながり企業が末永く存続する大きな鍵になる。

製造中止になったカメラは、一定期間を過ぎれば修理不能でお払い箱である。下取りでも買い取りでも二束三文。やはり新しいカメラを買うしかないのだ。そんなサイクルに、いつのまにか慣らされてしまっている。

そんな中で一石を投じるかのようなニュースを耳にした。期間限定ではあるがニコンが旧製品、それもF、F2、F3、ニコマートなどのメンテナンスを行うというのである。ニコンの心意気に拍手を送りたい。詳しい情報はこちらで確認してほしい。

それにしても機械式カメラは美しい。
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2017年08月16日

ヤシカJ-3


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1962年に発売されたヤシカJ−3。ボディを正面から見て右肩部分に露出計用の受光部が見て取れる。ボディ内に露出計が組み込まれていながらも、ボディの外寸は非内蔵カメラと同じ大きさになっている。これぞ技術の進歩と言うべきだろう。拙ブログ前出(2015年10月26日)のヤシカフレックス35には、外付け露出計取り付けのためのでっぱりがあるが、J−3は露出計内蔵だけあって、スマートになっている。ただし、あくまでも当時の話であって、銀塩カメラ最盛期の機種と比べれば大きく重たいのは否めない。

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露出計の精度もまた然りである。レンズを通ってきた光を測るTTLほどで精巧ではなかったことは容易に想像できる。受光素子はCds、そしておそらく受光角度は50ミリの標準レンズ装着時を想定したものであろうから、望遠、広角を使うときは、この露出計の癖をつかんだ上で補正が必要だったはずだ。といっても天候、明暗・・・など撮影状況を見極めた補正は、そう容易いものではない。

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話は変わるが・・・たまたま「ウルトラQ」(出典:amazon prime Video)の第4話「マンモスフラワー」を見ていたら、ヤシカの一眼レフを桜井浩子演じる江戸川 由利子が使っていた。J−3と思いきや、どうやらウルトラQに詳しい人の情報によるとJ−5らしい。J−3との違いは最高シャッタースピードが1/1000(J−3は1/500)、フィルムカウンターが自動復帰式になったことの2点である。ちなみに第4話の放映は・・・1966年1月23日ということだ。
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2017年05月24日

ニッカ TypeV-s


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ニッカといえばウィスキーである。このカメラはニッカウヰスキーのカメラ事業部が製造したカメラ・・・ではない。そもそも、ニッカウヰスキーにカメラ事業部などはない。カメラ業界に詳しい人であれば、この類の話しは、親父ギャグよりも「ひどい」と思うだろうし、実際、僕が誰かから、この話を聞かされたら・・・「おいおい」となるだろう。

さて、ニッカは「ニッポンカメラ」社が製造したカメラであるからして「ニッカ」と命名された。創業は1940年、「光学精機」としてスタートした。47年に社名をニッポンカメラ社に変更。さらに50年には「ニッカカメラ」になり、58年には「ヤシカ」の子会社となった。

ちなみにニッカウヰスキーは1934年に創業。創業者の竹鶴政孝はNHKの朝ドラ「マッサン」でお馴染み。あの時代に創業した会社には・・・朝ドラに取り上げられるかどうかは別にして・・・きっと様々なドラマがあったことだろう。

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このカメラを一目見れば「ライカのコピー」だなと誰もが思うところだ。創業時からコピーライカ製造に携わったのは、戦争の影響が大きかった。戦火が厳しくなるとライカの輸入が困難になり、軍の命令によりコピーライカ製造の道が敷かれたのであった。第二次大戦後、ライカの特許は敗戦国ゆえに無効になってしまう。日本だけではなく、世界中でライカのコピーが作られたのには、そんな経緯があったわけだ。やはり戦争は駄目でしょう。どんな理由にせよ戦争は反対である。

このカメラをじっくり見てみると、その造りの良さはライカそのものと云っても過言ではない。実際、ライカと品質においては引けをとらないといわれており、輸出先、とくにアメリカでは安価でライカが手に入ると歓迎された。

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キヤノン、ニコンも、ライカあるいはコンタックスをお手本に自社ブランドのカメラを開発したが、ライカのコピーにいそしむニッカと決定的に異なったのは、自社のアイディアを取り入れたところにある。後年、一眼レフが世を席巻する時代が来るわけだが、ヤシカに吸収され消えていったニッカの悲劇は、さらに時代がくだり、コンタックスブランドのヤシカが京セラに吸収され、いまや見る影もない事実に、なにかしら因縁を感じる想いである。
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2017年04月27日

ニコンF2フォトミックA


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1977年にニッコールレンズがAi化されたことは、2014年7月2日の拙ブログで触れた。Ai化にあわせ露出計内臓のファインダーのデザインも、ほんの少し洗練され、以前のフォトミックボディより見た目に軽快さが増した。正面から見てファインダーの右下に「A」の文字が刻印されている。ファインダーの型式はDP−1からDP−11へと変更。受光素子はCdsのまま変わりはない。

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Ai化で、レンズの露出計連動の爪は肉抜きされ、非Aiレンズとの見た目の差別化がされた。実はAi化のいちばんのポイントは、この爪ではなく、レンズの絞りリングにあった。Ai化ボディは絞りの情報を受けるためのレバーがレンズマウントの外周部に移設され、絞りリングに新設された突起と連動する。F2に限ってはファインダー側に、絞りレンズの突起と連動するレバーが新設された。なんだかよくわからない方は、頑張って理解する必要はありません(笑)

さて・・・F2を手にすると、いまだに臨戦態勢に近い気持ちにさせられる僕なのであった(笑) そんな気持ちにさせてくれるカメラは、そうはない。例えF2が手元になくてもフィルム巻上げ、シャッターレリーズ、フィルム巻き戻し、裏蓋の開閉の感触など、目を閉じれば(閉じなくとも)鮮やかに蘇るのである。

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ボディ底面には、普通のカメラには無い接点や摘みなどがある。いかにもプロが使う道具っぽい。当時はここを見て高嶺の花だったモータードライブ・MD−2を装着した姿をイメージしたものだ。ファインダーを外した姿にもグッとくる。カタログでしか見たことのないアクションファインダーを付けたら、きっと格好いいだろうな・・・とか、あれやこれや妄想を膨らすだけでも2〜3時間(ウソ)はつぶせたものだ。

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Fにはじまるニコンのフラッグシップ機は、かろうじて現行品としてF6がある。うち完全機械式なのはFとF2だけだ。その後の経緯は皆さんご存知の通り。デジタル時代のフラッグシップ機ではネーミングに「F」の文字は使われていない。フィルムを使うカメラだからFなのか、デジタルだからDなのかはわからないけれど、現在ニコンのフラッグシップ機がD5であることを、恥ずかしながらよく知らない僕なのであった。
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2017年04月19日

Exa type1.3


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一目見て、クラシックカメラ同好会のおじさん達が好みそうなデザインだなと感じた。僕がExa(エクサ)を手にしたは二度目のこと。このカメラの正式な機種名などはよくわからない。ネットで調べたところ、たぶんExa Type1.3ではないかと思われる。初代Exaは1950年に販売された。バリエーションは非常に多いと聞いている。Type1.3は52年の販売。それ以前、Kine Exakta(キネ・エクサクタ)という機種があり、これは1936年(昭和11年)に世に送り出され、35ミリ判一眼レフの元祖といわれている。ExaはKine Exaktaの普及版として登場した。

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シャッター速度はレバーによる切り替え式。まるでオートマ車のシフトレバーのようだ。シャッターは非常に得意なもので、ミラーシャッターというもの。シャッター速度はB、25、50、100、150の5段階。実にシンプルである。

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ファインダーは交換式で、ウエストレベルファインダーのほか、アイレベルプリズムファインダーも用意されていた。バラしてみるとシステマチックなカメラであることがわかる。レンズマウントはエクサクタマウントと呼ばれ、東京光学、マミヤ、オリンパス、コムラー、カールツアイスなどがレンズを製造していたというから、あの時代、かなり普及したカメラであったのだろう。しかし、いまはむかし・・・なのであった。
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2017年03月24日

ミノルタX−700


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いまさらのことだけど・・・社名のミノルタは「実る田んぼ」にあやかり、同社のロッコールレンズは兵庫県の「六甲山」から命名されたのは、よく知られているところだ。すでにカメラメーカーとしてのミノルタは無くなり、現在はデジタルマーケティングソリューション、デジタルマニュファクチャリングサービス、医療向けソリューション、デジタル印刷サービス・・・などが主な事業で、社名は「コニカミノルタジャパン」となっている。

事業内容を見ると、一般コンシューマーには馴染みの薄い会社になってしまったんだなぁ〜との印象はぬぐえない。遠いところへ行ってしまったミノルタなのであった。

そんなミノルタが1981年から1999年までの18年間、作り続けたのが「X−700」だった。このカメラのいちばんの売りはMPS(Minolta Program System)というプログラムモードだった。基本的にX−700は、マニュアルカメラであるが、プログラムモードを搭載することにより、露出合わせの煩わしさから解放されたい向きにはうってつけだったと思われる。カタログによると「一眼レフを初めて使う方でもすぐれた映像を簡単に映し込めます」とある。操作は「シャッターダイヤルをPに合わせ、絞りを最小絞り値にセッティングします。あとはピントを合わせ、感じるままにシャッターをレリーズするだけ」と、簡単さが強調されている。

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露出オート機能が付加されたカメラでは、シャッターダイヤルをAまたはPにセットすると回らなくなるのが一般的になった。絞りについても同様である。いつしかA、Pで固定されたシャッターダイヤルと絞りリングは、その役目を終え、いまやシャッタースピード、絞り値を視覚的に確認できるダイヤル、リングは廃止されてしまった(いま現在ニコンDfではシャッターダイヤルが、ライカM10ではシャッターダイヤルと絞りリングの両方が健在だ)。

さてX−700に話は戻るが、18年の長きにわたり製造が続いた大きな理由はどこにあったんだろう? ニコンF3、キヤノンNewF−1のような支持があったわけでもなく、これといった機能的な特徴もなく、ちまたでX−700使いのおっさんやお兄さん、お姉さんも見たことはない。確固たる根拠はないが・・・きっと海外ではシンプルな構造に対して、国内よりも支持が高かったのではないかと想像をしている。国内では85年に発表されたα7000が爆発的に売れていて、Xシリーズの明確な存在意義は見出せなかった。国外用を、おこぼれ的に国内で販売したのではないか、というのが僕の見方である。あくまでも想像の域は出ない話しだ。

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ミノルタの現状については上述したとおりである。実った田ぼは、いずれ刈り取られる。ソニーに刈り取られた?αシリーズが、新たな苗となり新境地を開拓することが出来るか、カメラが売れなくなったと云われてひさしいいま、カメラ業界そのものが、誰かに刈り取られるのか、それとも放棄された休耕田のようになるのか・・・。

あまり暗いことは考えないようにしよう。
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2017年03月14日

スピードグラフィック ミニアチュール


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スピードグラフィック(通称スピグラ)はアメリカのグラフレックス社が開発したカメラで、1912年の登場以来、約60年間、世界各国の報道カメラマン御用達の名機で第一線で活躍した。報道カメラマンといえばスピグラという一時代があったのだ。フォーマットはシノゴ、ブローニーなど大中判のフィルムを使用。日本には第二次世界大戦後に普及した。普及したといっても一般コンシューマーにではなく、あくまでも報道各社の写真部に、との但し書きがつく。

普及のきっかけは進駐軍からの横流しや、本国へ帰る米兵から譲り受けたりしたのがはじまりだという。50年代になって、ようやく正規輸入されることになったが、対象は報道関係者だけに限られていた。なのでスピグラを使っていれば、それはイコール新聞社のカメラマンということで、身分証になるほどだった。

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使いこなすには熟練の技が必要とされた。構造上、連写は出来ないから、まさに一写入魂!一枚の写真に込める気迫は鬼気迫るものがあったと想像する。暗い場所での撮影は一枚撮るたびに電球を交換するフラッシュバルブが使用されていた。

一般的なシノゴカメラと異なるのが、レンズシャッターのほかに、ボディにフォーカルプレーンシャッターが搭載されているところだ。1/1000のシャッターまで切れるようになり、動きの早いスポーツ撮影には重宝した。写真の型は、6×9のカットフィルムしか使えないタイプなので、バック部の取り外しが出来ず、フォーカルプレーンシャッターをお見せできず残念。中にはロールフィルムホルダーを取り付けられるように改造する器用な人もいたという。

フォーカルプレーンシャッターの巻上げ、レリーズはボディ側面のレバーで行うようだが、どう操作するのかは、よくわからない。

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日本でのスピグラの全盛時代は意外に短く東京オリンピックまでだった。やはりニコンFの登場が大きかった。毎日新聞社がニコンに切り替えたのを機に、各社は堰を切ったようにニコンを中心とした小型カメラへの鞍替えを行った。その後、空撮などの限られた用途以外、使われることも少なくなり、報道各社から消えたのが1970年頃だった。

栄枯盛衰はどの世界にもあることで致し方のないことだが、1976年に日本のカメラメーカー「酒井特殊カメラ製作所」は最終モデル「スーパーグラフィック」の知的財産権を譲り受け「トヨ・スーパーグラフィック」として1987年まで製造を続けた。その後、トヨビュー、トヨフィールドなどのシノゴカメラにスピグラの魂は引き継がれた(と、僕は思っている)。同社には現行品として、いまもなおシノゴカメラおよびオプションのラインナップが充実していて、シノゴ使いにとっては数少ない駆け込み寺的存在なのである。
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2017年02月22日

フォクトレンダー・ヴィトマチックT


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1958年に発売された「ヴィトマチック」シリーズの第一号機「ビトマチックT」。ヴィトーB(1954年)に露出計を搭載した上位機という位置付けになる。レンズは「COLOR SKOPAR 50mm F2.8」が装着されている。前出の「ヴィトマチックUa」は二重像合致式の距離計が搭載されていたが、こちらのピント合わせは目測式となる。

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基本的なデザイン、そして操作方法は同シリーズで共通である。恥ずかしがり屋のフィルムカウンターは底面に、パトローネ室専用の扉、飛び出る巻き戻しノブ・・・。ビトマチックTは、Ta(最高速度1/300→1/500へ)→Tb(ファインダー内に絞り値とシャッタースピードを指針追針式で表示)→Tcs(露出計の受光素子がセレンからCdS式へ変更)へと進化した。U型、V型も同様の進化が見られる。

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半世紀以上前のカメラなので経年劣化は宿命である。清濁併せ呑む気持ちが無ければお付き合いは出来ない。人もまた同じである。人生の先輩を大切にしよう・・・というのがクラカメと接して得た教訓なのであった。
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2017年02月10日

フォクトレンダー・ヴィトマチックUa


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フォクトレンダー社の創業は1756年、光学機器メーカーとしての歴史はながい。老舗中の老舗だ。しかしその後、紆余曲折を経て、現在は日本のメーカー「コシナ」が商標権使用許諾を受け、カメラ・レンズの開発、販売を行っている。

ヴィトマチックIIaは1961年に販売が開始された。セレン光電池式の露出計を内蔵、二重像合致式の距離計、1/500秒の高速シャッター、名玉カラースコパー50mmF2.8を装着し、コンパクトなボディながら、ずっしりとした重量感がある。隙の無い精緻な造りは、手にした瞬間、写欲に火を点けるのに十分である。ライカとは違う上質な造りには惚れ惚れする。

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シャッターボタンの右側の窓は露出計の指標で、○と−を合わせると適正露出ということになる。この指標はファインダー内でも確認できる。巻き戻しのレバーは・・・というかダイヤルは、通常埋め込まれていて、左サイドのレバーを操作をすると、ぴょん!と現れる。このあたりの仕掛けは、正に「カラクリ」だなぁ〜と感じる。しかしクランクがないので操作はしづらい。

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底部を見てみると、このカメラの造りこみの妙味をさらに感じる。三脚穴の左にあるのがフィルムカウンターで、フィルム装填の際、カウンターを手動で合わせる。通常は1からスタートするわけだが、このカメラはカウントダウン式。36からスタートする。フィルム交換は左のレバーをスライドさせるとパトローネ室が開く。巻き上げの終わったフィルムを取り出すのには便利かもしれない。でも、次のフィルムを装填するのに、結局は裏蓋を開けなければならないので、二度手間といえなくもない。

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フォクトレンダー最盛期に造られたヴィトマチックUa。機械式カメラとしての完成度は高かったものの、次第に日本製カメラに押され気味だったあの時代。その旨味を十分味わってもらえなかったのでは? 21世紀も20年弱の時間が流れたいま、残念ながら評価(市場価格)は、本来持っている実力の十分の一にも満たない。再評価されて欲しいカメラのひとつだ。

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2017年02月02日

アーガスC33


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1959年、米国のアーガス社より販売されたC33である。交換レンズは4本のラインナップがあり、一眼レフにはかなわないものの、それなりに幅広い撮影が出来るレンジファインダー式35ミリカメラである。アクセサリシューに装着する補助ファインダー、ボディ前面に取り付ける露出計も用意されている。装着してみるとレンガのようなボディが突起物のお祭りのような賑わいになる。とても人間工学に基づいたデザインとは云えない。日本人の手には馴染みの薄いデザインである。長時間の撮影では手が痛くなることは必至である。いかにも重量級に見えるが、手にしてみるとそれほどの重さはない。

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仰々しいデザインから受ける印象からか、何か複雑なギミックがあるのではないかと勘ぐってしまうが、普通のカメラとさほど変わりない。裏蓋を開けると、おもちゃっぽさが滲み出る。子供のおもちゃにしては贅沢だが、大人が触ってよろこぶほどの精巧さはない。ピント合わせのための三連結したギアを回す部分に、唯一このカメラを触る楽しさを味わえる?

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59年からわずか3年間しか作られなかったという事実からは、C33の人気の度合いがわかるというもの。
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2017年01月12日

キヤノンP


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1959年(昭和34年)に発売されたキヤノンP。機種名のPはProfessionalのPではなくPopulaire(ポピュレール・大衆、民衆)の頭文字なのだそうだ。話しはちょっと脱線するけれど、カメラのP(プログラム)モードをプロフェッショナルモードのPと言っていた著名な写真家がいた。ちょっと有名な話である。まぁ〜シャレなのだろうけど・・・。

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話しをカメラに戻そう・・・このPは一部機能を簡素化し、よりお求めやすい価格にした結果、10万台弱が生産・販売されたとのこと(メーカー公称値)。簡素化されたのはファインダーで、等倍固定、35ミリ/50ミリ100ミリの3重フレーム式に簡略化したモデル。枠は自動でパララックス補正され、アクセサリーシューのパララックス補正ピンは省略された。また装着するレンズによる視野枠の切り替え式を廃止した。

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ライカを追い越せ!は、大方のカメラメーカーが掲げていたスローガンであったことであろう。終戦の翌年のキヤノンSII以来、いくつかのLマウントカメラを作り続け、その中にはライカを越えたとまで云われた名機Wsbがあった。VT(1956年)からはライカを模したボディデザインを一新し、キヤノン独自となるのだが、評判の方は芳しくなかったようだ。1965年に同シリーズの最終型7sをもって、キヤノンのレンズ交換式レンジファインダーカメラは終焉を迎えることになる。
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2017年01月06日

アイレス35VC


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池田満寿夫氏の『模倣と創造:偏見のなかの日本現代美術』からの引用で恐縮だが・・・「すべての創造は模倣から出発する。そして創造が真の意味の創造であるためには、その創造のための模倣が、創造的模倣でなければならない。もっと簡単に説明すれば、芸術家の盗み方に創造の秘訣、あるいは独創性が隠されているのである」・・・ということらしい。

今で言うところのパクリやコピーと模倣は異なる・・・のだろう。で、アイレス35VC(1957年発売)である。一目見てお気づきではあろうが、ライカM3(1954年発売)ととてもよく似ている。それ以前にもバルナックライカやコンタックスを模したカメラが、いくつものメーカーから創られている。このカメラを含め池田氏の云うところの創造の秘訣や独創性があったのかどうかは、敢えて言及しない。まぁ〜小難しい言葉は傍らに置いておいて、アイレスを見てみると、素直に格好いいカメラだなぁ〜と思うわけである。何と言っても元になったM3が秀逸だったからにほかならない。

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フィルム交換はM3と同じように底蓋をはずす。ユーザーにライカっぽさを感じてもらう粋な計らい?さらに裏蓋を開けるという凝った演出?である。

M3との大きな違いはレンズ交換が出来ないところである。この型にはPコーラル45ミリ F2.4付き、Hコーラル45ミリ F1.9付きの二種類があり、いずれもレンズは固定されている。翌年に販売されたアイレス35Vには専用マウントが搭載され、35ミリ、45ミリ、100ミリのレンズが用意されていた。しかし商業的には振るわなかったようだ。

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ある対象に対して、二番煎じと揶揄することは非常に簡単である。しかし重要なのは、そのものが内包しているであろう独創性を見抜けるかどうか、受け手自身が、その力を磨くこと、そのことこそが求められているのではないだろうか。
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2016年12月28日

ニコレックスF


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日本光学工業株式会社(現ニコン)が、はじめて世に問うた廉価版一眼レフが「ニコフレックスF」だ。1962年に販売開始された。圧倒的な存在感を持つ「F」に対して、大衆向けカメラのなかった日本光学工業株式会社が、マミヤへOEM生産を依頼したとの通説がある。したがって品質はニコンのそれではない。なんとなく野暮ったいボディデザインは、金属プレスの甘さから来るものだろうか?間延びしているというか、ゆるいというか・・・。Fと比べるのは気の毒だが、プロがサブカメラとして使うにしても、ためらうほど各所の作りに甘さがある。

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シャッターはコパル社製の縦走りで、羽根に「Copal Square」の文字がこれ見よがしに印字されている。フィルム交換時以外、この文字を見ることはまずないわけで、デザイン的なアクセントを意識したのだろうか?

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ペンタ部分の「F」の文字は何故か恥ずかしく、そして浮いたように見えるのは、僕の気のせいだろうか?外付け式の露出計を取り付けるガイドもスマートさに欠ける。フィルムの巻き上げレバーは、デザイン的な配慮はまったくされていない。まるで棒のようだ。唯一ニコンらしいのは、伝統のFマウントを装着している・・・ところだけだろうか。

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図らずも駄目出しのオンパレードになってしまった。しかし廉価版と言っても焦点距離5センチメートル、開放F値2の標準レンズ付きで、当時39800円という価格だ。ちなみに「F・アイレベルファインダー付」は5センチメートル、開放F値1.4の標準レンズ付きが68500円だった。大卒初任給が18000円の時代であるからして、ニコフレックスFだって決して安い買い物ではなかった。一眼レフを持つことなど、おいそれとは叶わなかったあの時代、なけなしの貯金をはたいて購入した人もいたことだろう。そういう人にとって、首から提げた「ニコフレックスF」は宝物だったろうし、羨望のまなざしを向けられたことは間違いない。当時の宣伝を見ると、販売の意気込みはかなり高かったのだろう。しかし販売台数は伸び悩み、商業的には決して成功したカメラではなかった。真のサブカメラとして1967年に登場した「ニコマートFT」が後継機種と云う向きもあるが、系譜としては傍流と位置付けたほうがいいかもしれない。
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2016年12月13日

ペトリカラー35


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ペトリカラー35は昭和43年に発売されたコンパクトカメラである。この写真から実際の大きさの判断は難しいかもしれないが、その2年前(昭和41年)に販売されたローライ35と何かと比較されることもあったくらいだから、ボディの「小ささ」には「大きな」インパクトがあったのだろう。上部のダイヤル2つと、ファインダー隣りのダイヤルは、カメラに詳しくない人だって、手にすれば操作のポイントがこの3つのダイヤルにあることくらいの察しはつく。

カメラを構えると人差し指が前のダイヤルに、親指は後ろのダイヤルに自然と配される。前でシャッター速度を、後ろで絞り値の調整を行う。この配置は斬新だ。ピント合わせはファインダー横のダイヤルで調整する。ファインダー内には、遠景、中景、近景のイラストと指針があり、撮影者がダイヤルを動かすと、連動する指針がイラスト上を移動し、撮影者が判断した位置に合わせる目測式である。

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このカメラの特徴のひとつとして、レンズは沈胴式となっている。ピント合わせのダイヤルを動かすと、僅かではあるがレンズが繰り出される。一定以上の位置までダイヤルを回し、目測式距離計がスタンバイされないとシャッターが切れないようになっている。

改めてこのカメラを見てみると、年代を考慮しても、よく出来たカメラだと思う。ペトリの労使紛争について詳細をいまさら突っついてみても仕方がないが、こんな秀逸なカメラが創れたのだから、もう少し何とかならなかったのか・・・。一見して、いまにも通じる高級コンパクトカメラの趣があるわけで、せめて90年代以降も会社が存続していれば、さらにブラッシュアップされた真の高級コンパクトカメラが世に排出されたのかもしれない。
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2016年12月02日

アサヒペンタックスSL


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名機アサヒペンタックスSPから露出計を省き、簡素化したのが「SL」である。簡素化というと、なんだか安っぽく思われがちだが、実はこのカメラ、SPよりも耐久性が高められているのが特徴である。ベースは通常版の「SP」ではなく、SPのモータードライブ仕様「SP MD」なのである。

TTL(Through The Lens)という、画期的な露出計が内蔵された「SP」は歓迎される一方で、精度の面でいまひとつ信頼がおけないと敬遠する向きもいた。機能をプラスして故障の原因が増すことを嫌う上級者達を対象にしたカメラが「SL」である。開発の背景や市場のニーズなど、いろんな面に触れると、このカメラの魅力が浮かび上がってくる。もしかしたら真の名機は「SP」ではなく「SL」なのではないか・・・と。

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不思議なものでニコンF2も露出計を内蔵したPhotomic系よりも、アイレベル系の方に人気がある。時代を経て立場が逆転したわけだ。最新式のデジカメも発売直後は20万も30万もするが、後継機種が出て数年も経てば二束三文の価値にしかならない。エンドユーザーは、常に最新の機種を持たなければならないという、ある種、強迫観念のようなものにとらわれていて、それはメーカー、小売店の戦略に上手く乗せられてしまったのかもしれない。

まぁ〜実際のところ、デジカメもまだまだ改良の余地はあるわけで、先代のウィークポイントが改良された後継機種が出れば歓迎されるのも事実で、そこに魅力を覚え、ついついポチッとしてしまうのだが・・・。

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いまから48年前の1968年に販売された「アサヒペンタックスSL」。写真が銀塩からデジタルへ(ほぼ100パーセント)シフトした現在でも、その存在感はゆるぎないものだと思っている。
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2016年11月24日

ツアイスイコン・スーパーセミイコンタ


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カメラというよりは・・・写真機、それも「寫眞機」と表記した方がしっくりくる、それが1937年(昭和12年)に、独逸はツァイスイコンタ社から出された「スーパーセミイコンタ」である。フィルムサイズはブローニー(2B)で、フォーマットは645のセミ判。ブローニーフィルムはいまでも購入できるから、その気になれば、すぐに撮影現場の最前線でシャッターが切れるわけだ。なにぶん各所の傷みは激しいので、あちこちに不具合は発生するが、そこは眼をつぶればいいだけの話である。 中古カメラとお付き合いするには、寛容な心を持つことが肝要である。

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さてこの冩眞機には、高性能な距離計が付いている。レンズ前玉に連動するギアを回して測距する。ギアの後部には小さな虫眼鏡のようなレンズがあって、このレンズを通った光がボディ側の二つの窓に入り測距する。虫眼鏡に見える部分は、非常に精密なプリズムで、この寫眞機のキモといってもいいだろう(ドレイカイル方式と云うそうな)。見た目は、さもないレンズにしか見えないが、素人が不用意に分解をしようものなら、とんだ火傷をする。時に好奇心は寿命を縮めてしまうことにもつながるので肝に銘じておこう。

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スプリングカメラの王道を行くのが「スーパーイコンタ」シリーズで、写真のセミ判の他、6×6、6×9もあり、各フォーマットで微妙に意匠の異なる機種があったようだ。世界的名機といわれただけあって、各国から亜流がいくつも派生した。しかしながら「スーパーイコンタ」を凌駕する「冩眞機」は、ついぞ出てこなかった。これはレンジファインダーのライカにもいえる。

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冒頭に書いたように、中古カメラの経年劣化はいたし方のないことだ。でもデジタル化された現代においても、十分使えるだけの耐久性を備えていることに驚きを隠せない。職人魂をひしひしと感じるのである。「冩眞機」は一生ものといわれた時代。「スーパーイコンタ」も家一軒ほどの値が付いていた。鷹の目と形容されたテッサー7.5センチは、少々の曇りはあるものの、レンズの畔に立ち、深淵を覗き込むと・・・何か哲学的な真理すら感じる・・・とまで書くと云い過ぎか。
戦前・戦後のツァイスレンズは、シリアルナンバーから正確な製造年がわかる。

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2016年11月09日

コンタフレックス スーパー


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1959年といえば、云わずと知れた「ニコンF」が産まれた年である。同じ年、西ドイツのツアイス・イコン社から産声を上げたのが「コンタフレックス・スーパー」であった。当時の販売価格は「ニコンF」がオートニッコール50ミリF2.0付きで67.000円、「コンタフレックス・スーパー」が50ミリF2.8付きで96.500円。ちなみに大卒初任給が約1万4千ほど。いかに高価であったかがわかる。カメラそのものが贅沢品、まして舶来品となれば、なおのこと値が張るわけである。

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ペンタ部に張り付いているのはソーラーパネルではなく「セレン露出計」の受光部である。この時代の定番。ボディの作りは、非常に精緻で手抜きの無さはさすがドイツ製である。ずっしりとした重さから剛性の高さもうかがえる。

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フィルムカウンターは36からスタートしてカウントダウンをする。フィルム装填後、ユーザーが手動で36、もしくは20枚・・・など撮影可能枚数を合わせなければならない。

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ASA感度は10〜1300の間で設定できる。ドイツ製なのにDINではないのが不思議なところ。端からアメリカへの輸出を意識していたのだろうか?感度ダイヤルは、絞り値設定も兼ねている。シャッター速度を選び露出計の針が真ん中に来るよう絞りを調整する。このカメラの特徴として、一度露出値を決めてしまえば、シャッター速度を変えても絞り値が連動するところにある。シャッター速度優先・自動露出のマニュアル版とでも言うべきか。極端に明るさが変わった場合は、もういちどシャッター速度を変えてから合わせる必要がある。

シャッターはレンズシャッター式。速度はB,1〜1/500。シャッターを切るとファインダーはブラックアウト・・・つまり真っ暗になる。フィルムを巻き上げるとミラーが元の位置に戻り、ファインダーが覗けるようになる。交換レンズが数本用意されていたようだが、一眼レフのようなバヨネット式マウントは備えておらず、レンズの前玉のみを交換する。構造的に極端な長玉や広角はなかったかもしれない。

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裏蓋はごっそり引き抜くタイプ。裏蓋を小脇に挟んでの交換は、雨の日などは、きっと苦労したに違いない。何かと不便な操作方法を強いられるわけだが、高級カメラを手に入れた喜びは、きっと多少の苦労などは打ち消す魅力を持っていたことだろう。
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2016年10月28日

コニカL


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写真は男が撮るもの・・・そんな偏ったイメージに支配されていた時代があった。実際、職業写真師は、ほぼ100パーセントが男だったし、アマチュアも男が大勢を占めていた。女性の社会進出もいまほどではなく、家計を支える男が全権を握っていたわけだから、カメラが家庭にあったとしても、男が占有するのが当然という空気があった。

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1961年発売の「コニカL」は、女性をターゲットにした初(?)のカメラだった。ネーミングの「L」は「Lady」と「Light」の頭文字からとったという。前出の「フジペット」は子供用、そしてこちらは女性用である。メカ的な部分は、フジペットより進化していて、幅広いシチュエーションに対処できるようになった。シャッタースピードは B、1/30〜1/250秒で、レンズは開放F値が2.8のヘキサー40ミリが装着されている。最短撮影距離は1メートル。

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露出計は電池不要のセレン式。露出計の針が真ん中に来るよう、レンズのグレーリングを回して調整する。ピント合わせは目測である。距離が刻印されているレンズの先端部を回して、撮影者が感覚的に合わせる。このあたりの操作は、メカに弱いといわれている女性にはありがたかったのでは?メカに五月蝿い男の眼には「物足りない」と映ったことだろう。

話は変わるが、写真教室に参加した人たちを見ていると、男はメカの話では盛り上がるが、女性は撮影そのものを楽しむ傾向が強いように感じている。撮影した写真を見せてもらうと、感覚的に捉えた女性の作品にいいものが多い、なんてことがままあるのである。実は女性は写真撮影に向いているし、そしてうまい・・・というのが僕の印象である。

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さて、フィルムを装填するために裏蓋を開ける。ご覧のようにユニークな開き方をする。コニカ(当時は小西六写真工業)製であるからして、サクラフィルムを装填してね、のシールが眼を惹く。

当時としては小さなボディサイズ、シンプルな操作など、女性向きのこのカメラがどれほど支持されたかはわからない。しかし女性が新しい分野へ進出する、ひとつのきっかけにはなったでないだろうか・・・と僕は思ったのであった。
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2016年10月20日

ペンタックス645


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初代「ペンタックス645」の発表は1984年、32年も前のことになる。来たるべくネット社会のことなど一般人は想像すらしていない時代である。もちろんデジカメのことも・・・。発売のニュースはアサヒカメラだったか、日本カメラだったかは忘れたが、いずれ誌面の速報からであった。84年というと、僕はまだ自然風景を撮っていない。ニコンF2にトライXを詰めて、たまに街角スナップをする程度だった。なので、発表時はまったく興味がなかった。

実機を手にしたのは92〜3年頃だったように記憶している。645の前はペンタックスの6×7、45ミリ、75ミリ、90ミリ、135ミリ、200ミリで風景を撮影していた。6×7の大きく重たいボディ、三脚にしっかり固定してもシャッターを切るとボディの揺れが見えるほどの衝撃は、はっきり言ってメンタル的にあまり気持ちのいいものではなかった(笑) なのでレンズシャッターのマミヤRBに切り替えようか、などと考えもしたが財力の関係でそれは諦めた。

ストレスとはいかないまでも、解決策はないものかと考えを巡らせて、辿りついたのが「ペンタックス645」であった。カタログを見るとアダプタを介して6×7のレンズの装着が可能であることが判明。これが決定打となり購入を決めた。

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いざフィルムを詰めて撮影をしてみると、その軽快なシャッター音、巻き上げ音は実に心地よかった。ミラーアップは出来なかったものの、ショックは6×7に比べて遥かに小さく、当時はその必要性はあまり感じなかった。

操作は上部に集中している。ボタン操作は同社35ミリ判のMEスーパーを発展させたようなイメージ。露出補正は±1段ずつだったが、僕はマニュアル露出だったので、最後まで露出補正ボタンには触らなかった。

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ハッセル、マミヤ、ブロニカのようなフィルムバックの途中交換は出来ない。一本のフィルムを取り終えてから別のフィルムを装填する。使用するのはいつも同じフィルム(ベルビア50)だったので、この点に関しても不便さはまったく感じなかった。

平行してシノゴの撮影もしていたので、いつしか645はサブカメラ的な位置づけになってしまったが、カット数を稼ぎたいとき、機動性が必要な撮影ではメインとして使っていた。

645の発表の翌年に35ミリ一眼レフは本格的なオートフォーカスの時代に突入した。ミノルタα7000の登場である。その後も645はしばらくわが道を進む。しかし97年には645も遂にオートフォーカス化されることになる。「645N」の登場である。01年にはミラーアップも可能となった「645NU」へと進化した。フィルムの645シリーズも、いつしか終焉のときを向かえ、その後、645Dから現行の645Zとなる。

現在、裏磐梯の有名な撮影地辺りで周囲を見てみると、ほぼ100パーセントに近い割合でデジカメが幅を利かせている。でも極稀に、あの645独特のフィルム巻上げ音を耳にするときがある。そんなとき僕は反射的に音のする方を見てしまうのであった。
posted by 生出 at 12:33 | Comment(2) | フィルムカメラ

2016年10月17日

キヤノンF-1


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キヤノンが5年の歳月と数十台分の開発費をかけて世に送り込んだのが「F−1」である。1971年3月に発売された。プロ市場はすでにニコンF、F2に席巻されていた状況であったが、そこへ殴りこみをかけたのが「F−1」であった。

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ボディの耐久性は+60度〜−30度、湿度90パーセント、連続10万回に耐えるシャッターユニット・・・その頑丈さは「重戦車」と形容された。新しく開発されたFDレンズ群はカラーバランスに優れ、さらに無調整で取り付けられる各種アクセサリーも開発。あらゆる撮影に対処できるシステムが構築された。報道からコマーシャルまで、あっという間に幅広い世界で支持された。遥かうしろを走っていた選手が猛ダッシュで迫り来る足音に、ニコンは戦々恐々だったのではないだろうか?

1972年には、固定ペリクルミラーを使用した「F−1高速モータードライブカメラ(当時、世界最高速の秒間9コマ)」が発表された。同年ドイツ・ミュンヘンで開催されたオリンピックで好評を博し、1976年のモントリオールオリンピックでは、公式カメラに認定され、一気にニコンの牙城を脅かすことになる。次第にスポーツ中継ではキヤノンの白レンズの砲列が数多く見られるようになり、ニコンを席巻してしまった。

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ニコンF、F2、そしてF−1を使った僕の感想としては、ボディの作りこみはF−1に軍配が上がる。F2にはチタン製ボディがあったものの、F−1の分厚い鉄板(実際は真鍮)は少々の衝撃ではびくともしない。情けない話だが・・・撮影中、油断をしてコンクリートにF−1を落としたことがあった。ペンタ部分は大きく凹んでしまい、これは間違いなくプリズムにもダメージがあるだろうとファインダーを覗いたところ・・・まったく無傷だった。その状態で数年は使っていた。

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ファインダーの交換はスライド式で、左右の着脱ボタンを押して引くと、すっ〜と引き出せる。装着も実にスムーズ。FやF2のように親指の爪やコインで着脱ボタンを押す、あのストレスはない。ファインダースクリーンも当然交換式で、スクリーンの溝に爪を引っ掛けると、これまたストレス無く取り外せる。F、F2はボディをひっくり返して、着脱ボタンを押さなければならない。これは事実かどうかはわからないが、F−1発表の際、キヤノンの担当者が開けた裏蓋を持ちながら、カメラをぶんぶん振り回して「このくらい全然へっちゃらです」とボディの堅牢さをPRしたという。F2の柔らかい裏蓋で、そんなことは到底出来ない。また「10年間は、モデルチェンジをしない」という公約も信頼性を得るものであった。実際は1976年に小さな改良(13箇所)が加えられ、そのボディはF−1Nと表記されていた。ブログ紹介のF−1は初期モデルである。

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当時使っていたF−1は35年ほど前に手放してしまった。知人のF2Photomicと交換してしまったのだ。あのころ僕は使い慣れたF−1に多少の未練はあったものの、キヤノンでもニコンでもどちらでもよかった。双璧のひとつをなすニコンを使ってもいいかな、くらいの気持ちだったのだ。知人は海外青年協力隊としてエチオピアへ赴き、彼の地でF−1を使うも、帰国時にあちらの知人に譲ってしまった、と言っていた。いまもアフリカ大陸にあの「F−1」はあるだろうか?
posted by 生出 at 08:23 | Comment(0) | フィルムカメラ