2012年05月13日

斎藤利幸氏からのメッセージ 〜その2〜

5 どのような利権があろうと、放射性物質の害悪が自分に降りかかってくる、あるいはそう想像できるのであれば、もはや原発に依存しようなどとは思わないだろう。自分だけでなく、自分の子供や親に降りかかるとしたら、やはり原発に依存しない社会に向かうしかないと思うであろう。では、なぜ自分、その子供、親の場合と、それ以外の場合では立場を変えてしまうのか。

 人は自分がどうなるのかという関心を常に持っており、これに従って判断し、行動している。従って、自分が被害者になると想定した場合には、それを避けようとする判断に傾く。そして、自分の子供や親は自分の分身であるから、自分と同じように被害を避けさせようとする判断に傾く。自分と、子供や親は直ちに同視(共感)でき、その苦痛を感じ取ることが出来る。

 原発に依存しない社会を作ろうと思うかどうかは、事故の被害、膨大に生み出される核廃棄物によって苦しむ人々の被害を、あたかも自分の被害として感じ取れるかどうかにかかっている。野田総理や枝野氏、閣僚が、福島県民等今回の事故の被害者そのものの立場に立てれば、原発に依存しない社会しか選択の余地はない。現に、プルサーマルという危険物を受け入れ、福島県民を裏切った左藤雄平知事自身が、「再生可能エネルギーを推進し、原子力に頼らずに、発展し続けていくことができる社会を目指します。」(福島宣言)としているとおりである。

6 即ち、原発に依存する社会を維持するかどうかは、論理(あるいは科学)の問題ではなく、感性(共感性)の問題なのである。それが鋭ければ脱原発しかあり得ないし、鈍いか、欠けていれば、利権その他の魅力に惑わされ、それを温存する方向に傾く。 そして、不幸なことに鋭敏な人と鈍感な人との間の話し合いはほとんど不可能である。野田総理、枝野氏、その他の閣僚も、自分なりの論理を持っていて、それが他人に害悪を及ぼすものだなどとは思っていないはずである。感性の鈍い(欠如した)人間は、自分自身にも騙されやすい。なぜなら、およそ他人の不幸など目に入らない、極めて狭い視野しか持てないからである。
 
7 この共感性の問題は、あらゆる問題の背景となっている。この根本を変えないと、例え原発が無くなっても、同様の問題が必ず発生する。今回の原発事故は、日本社会のあり方、人間社会のあり方そのものの変更を迫っているといえる。「変えよう日本」である。ちなみに、「共感性」とは他人を思いやる「人間性」と置き換えても良い。

    以  上
posted by 生出 at 21:36 | Comment(0) | その他
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