2021年01月21日

悲運の作家「生出仁(おいでまさし)」


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『愛闘』は、江戸末期の嘉永6年、旧南部藩で起こった大百姓一揆「南部三閉伊(さんぺい)一揆」を素材にした小説である。1930年(昭和5年)、作者は今東光として出版された。当時は「奥州流血録」と云うタイトルであり、実は真の作者が「生出仁(おいでまさし)」であったことは、世に知られていなかった。時を経て、1988年12月6日にタイトルを『愛闘』とし、作者も「生出仁」として出版され、初めて世に知られるところとなった。彼の死後(1954年12月6日没)から実に34年、「奥州流血録」が出版されてから58年の歳月が流れていた。

生出仁は1904年(明治37年)に宮城県桃生郡飯野川町(以前の河北町皿貝、現在は石巻市皿貝)に生まれた。石巻市に父の経営する旅館兼下宿屋があったが、本業以外の事業に手を出し失敗、一家は岩手県千厩町に移る。盛岡高等農林学校を中退後、岩手県庁に務めるも数年後に退職。その後(1926年)、上京し文学活動に専念する。

上京した仁は詩の創作に旺盛な活動を展開し、詩誌の刊行にも携わる。1930年「岩手詩集」の発刊が企画され、その編集委員として宮沢賢治ら12名が選ばれたが、仁の名もその中にあった。

その3年前、1927年10月、岩手県胆沢在住の小学校教師で詩人の「織田秀雄」が雑誌「天邪鬼」を刊行。「天邪鬼」その二に、仁は『出水』と云う短編小説を寄せている。その内容は、小作農の娘が借金のカタに貞操を踏みにじられ、その結果、生まれた赤ん坊を雪解け水が轟々と流れる濁流に投げ捨てる、という悲劇を描いたものだった。当時の農民の苦しい実態を見事に描いた珠玉の短編であり、プロレタリア文学史にも列せられてもおかしくないほどの内容だったという。

仁が『愛闘』を執筆したのが1927年から30年にかけての期間だった。仁自身、この作品の出版を強く望んだが、世間的には無名に近い作家の作品を出版してくれる出版社はなかった。当時すでに気鋭の作家として知られていた「今東光」名で出版されたのは、主に出版社側の販売の都合によるもので、仁も了承してのことだ。

1930年の週刊朝日5月号に今東光の短編小説「出水・・・郷土的記録・・・」が掲載された。この作品は、前出の仁作の『出水』に僅かに加筆されたものだった。当時、著作権という概念が今ほどは確立されておらず、仁と今東光の関係のように、代筆(代作)はしばしば見られたことであった。

1933年、仁は突如として日刊自動車新聞社に入社し、文学活動と決別をする。そのあまりにも早い転身は、彼を知る者が驚きの声を上げられないほどだったという。その後も専門雑誌、業界紙に携わるも、1954年50歳の若さで鬼籍に旅立ったという。

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『愛闘』が出版された当時、亡父は直ぐにこの本を購入し、感慨深げに読んでいた姿を今思い出している。仁の出身が同じ河北町皿貝だったので、いてもたってもいられなかったのだろう、家系を調べ僕に見せてくれた。この写真を見て、伯父や従兄弟にも似ていると僕も思った。しかし当時、20代半ばだった僕には関心事が他にもあり、それどころではなかったのである(笑)

東日本大震災で実家が無くなってしまい、父が調べた資料を見ようにも、それは叶わない。後悔すること仕切りである。今回、たまたま古書で見つけた『愛闘』を早速仏前に供えたのであった。
posted by 生出 at 17:43 | Comment(0) | その他
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