
林道を走行中、四足の動物が横切り路肩にうずくまった。驚かさないようにエンジンを切りコンデジを向ける。はじめ狐の子供かな?と思ったのだが葉陰からのぞいた顔は猫だった。しばらくにらめっこをしていたが、やがて顔を出しゆっくりと道の真ん中を歩き始めた。

今年5月15日に「野生の猫」の話を掲載したが、これこそまさに「野生の猫」と云っていいだろう。標高は1000メートルを軽く超えており、林道も終点に近い場所で、サルや熊が生息するところ。いちばん近い民家は小野川湖畔だから、この場所からは7〜8キロはあるだろう。仮に家猫だとしても民家から、ちょっと散歩をするような距離ではない。餌は何?寝床はどこ?冬はどうしているの?などなど疑問符が頭の上にいくつも浮かんでは消える。
ここで僕は、ふと思ったのだった。人に飼われて何不自由無く生きる猫に比べて「野生の猫」はなんて不幸なんだろう、なんてことを考えてはいけないのだ・・・と。彼の人生・・・いや猫生は、必ずしも平坦ではない。むしろ起伏がありすぎて、並の猫ではすぐに根を上げるだろう。人間も動物も満ち足りた生活を送っていると、時間の使い方が疎かになりがち。野生で生きるが故に一日を乗り越えられた喜びは、きっとひとしおだろう。その喜びは彼だけのものであって誰のものでもないのだ。
野生の猫
名前は吾郎
オス5歳
家族はバツイチ
みんな餌のある村へ
去って行き
一匹で自由気ままな
生活かな?
かしこ
◇尾崎放水さん、こんにちは。なるほど彼の名前は吾郎さんでしたか。猫でもバツイチ、つまり離婚出来るとは知りませんでした。きっと彼は家族を持つことに不向きだったのでしょう。それは不幸ではありません。むしろ幸いでした。世間の目は、ときに自分の価値観とは異なる常識を浴びせます。そしてその目は、きわめて無遠慮で無責任なものです。
自分のいちばん居たいところ、居るべきところはご自身で決めるのがいちばんでしょう。さびしさ、かなしさ、たのしさ、うれしさ、いかり、おそれ・・・すべて自分のものです。これ以上の贅沢はありません。
そういえば彼、吾郎さんの表情の中に凛としたものを感じたのは、彼が今の生活を楽しんでいるからかもしれませんね。