2012年05月30日

ぷらいべiと

 
 private-u.jpg

吉田拓郎の「ぷらいべiと」。小室等、吉田拓郎、井上陽水、泉谷しげるの4人が立ち上げたレーベル「フォーライフレコード」から1977年にリリースされた。当時、このアルバムを聴いてがっかりした。
なんで拓郎が「夜霧よ今夜もありがとう」「くちなしの花」を唄うのか、まったく理解出来なかった。
フォークの人間が歌謡曲に媚びを売っている、などと今思えば狭い了見で、このアルバムを見ていた。フォークはこうあるべきだ、テレビに出るなど、もってのほか・・・等々、当時のファンは拓郎をはじめ、フォーク歌手に枠をはめて見ていた。その枠から外れたら「商業主義に走った奴はもう終わりだよ」などとうそぶいていたのだった。

モノを作る人間には、それぞれスタイルがあって、それは次第に、時には突如として変わることがある。ひとつのスタイルに拘ることもいいだろうが、大胆にこれまでの枠から飛び出し新しい境地に立つことはアーティストとして当たり前のことだ。一部の頭の固いファンには、それがわからなかった。

そういえばアルバム「元気です」で拓郎は、こんなメッセージを発していた。
「フォークシンガーになんかなりたくないのです。だって僕はもっと自由でいたいし、人前でだけ器用に自由を売り物になんかしたくないから。もうやめよう、もういいかげんにしよう・・・自分で自分の言葉をもつのです。その時、もうフォークなんか関係ないのです。何でもいいのです。自分の唄であるならば、自分のメロディを皆んながもてれば・・・。」

「ぷらいべiと」の中にはキャンディーズの「やさしい悪魔」、由紀さおりの「ルームライト」、梓みちよの「メランコリー」が収められているが、いずれも拓郎の作曲である。
拓郎はフォーク歌手でもあるだろうし、すぐれた作曲家でもある。ひとくくりにはできない多面的な才能を持つアーティストである。
ちなみにジャケットは拓郎自身が描いたもので、キャンディーズの伊藤蘭がモデルなのだとか。
posted by 生出 at 22:08 | Comment(0) | 音楽

2012年05月29日

ニラ玉他


 dinner-u.jpg

今晩はニラ玉、豚ひき肉のソボロ、そしてサラダ。ニラ玉は胡麻油を使った。味が香ばしくてなかなかだった。ソボロはやや塩っぱかったし、ショウガを入れすぎた。ニラ玉とソボロは明日の朝食にも食べる予定。
ちなみに米は北会津に住む山の先輩が丹誠込めて作ったもの。こだわりの米である。冷めてもモチモチ感が持続している。
posted by 生出 at 22:11 | Comment(0) | 男の料理

2012年05月26日

古い船を いま動かせるのは 古い水夫じゃないだろう


 furuifune-u.jpg

70年リリースの「古い船を いま動かせるのは 古い水夫じゃないだろう」を久しぶりに聴いてみた。日本は政治の時代。安保闘争まっさかり。曲間に69年、新宿西口の反戦集会の模様が挟まれている。あの頃・・・若者は熱かった。自分たちの力で古い価値観を崩せる、変えられる・・・そう思っていた。岡林の「友よ」はそれを象徴するメッセージソングであった。

♪夜明けは近い〜、夜明けは近い〜♪ 

当時の若者も既に還暦を過ぎた。あの場所にいた彼らは当時を振り、どんな思いを抱いているのだろう?

このアルバムで拓郎が注目され、エレックから「イメージの詩」「マークU」がシングル盤で世に出る。以後拓郎はフォーク界の貴公子としてもてはやされる。アルバム「人間なんて」で唄った「どうしてこんなに悲しいんだろう」では、当局との闘いに敗れた(と、敢えて云うけど・・・)虚しさを淡々と綴っている。

♪ 悲しいだろう みんな同じさ 同じ夜を むかえている
 風の中を ひとり歩けば 枯れ葉が 肩で囁くよ
 これが自由というものかしら 自由になると寂しいのかい
 やっとひとりになれたからって 涙が出たんじゃ困るのさ
 明日になると いつものように 心を閉ざしている僕さ・・・

「こちらは淀橋警察署。君たちの行為は道路交通法に違反するばかりでなく、東京都公安条例にも違反します。ただちに、この西口の地下道から出ていきなさい。さもないと実力を持って排除しますよ!」

「われわれはぁ〜 日常を解放をするぞぉ〜! 日常を解放するぞぉ〜!!」

シュプレヒコールがコダマした日から40年以上が経った。今日のこの日を予測出来た人間は・・・いなかった。
posted by 生出 at 23:30 | Comment(0) | 音楽

2012年05月15日

「福島の祈りと言葉」

 
 sakura-u.jpg

あの日から、今日で431日が経過したことになる。復興、復旧と云う言葉は連日のようにマスコミから流れてくる。大きな災害と人災の中で、やりきれない思いを抱いている方々の、なんと多いことか。個人の力で出来ることと、そうでないこと。今回の東電原発事故は、個人の力でどうこう出来るものではない。それだけに個々人の前向きな気持ちを、一気にトーンダウンさせてしまう。なんとも切ない、やり切れない、そんな思いが心の中で渦巻いている。

「福島の祈りと言葉」というフリーペーパーが、震災からちょうど一年後に発行された。ご縁があり写真と文章を掲載させていただいた。ご覧いただければ幸いです。
posted by 生出 at 21:26 | Comment(0) | その他

2012年05月13日

斎藤利幸氏からのメッセージ 〜その2〜

5 どのような利権があろうと、放射性物質の害悪が自分に降りかかってくる、あるいはそう想像できるのであれば、もはや原発に依存しようなどとは思わないだろう。自分だけでなく、自分の子供や親に降りかかるとしたら、やはり原発に依存しない社会に向かうしかないと思うであろう。では、なぜ自分、その子供、親の場合と、それ以外の場合では立場を変えてしまうのか。

 人は自分がどうなるのかという関心を常に持っており、これに従って判断し、行動している。従って、自分が被害者になると想定した場合には、それを避けようとする判断に傾く。そして、自分の子供や親は自分の分身であるから、自分と同じように被害を避けさせようとする判断に傾く。自分と、子供や親は直ちに同視(共感)でき、その苦痛を感じ取ることが出来る。

 原発に依存しない社会を作ろうと思うかどうかは、事故の被害、膨大に生み出される核廃棄物によって苦しむ人々の被害を、あたかも自分の被害として感じ取れるかどうかにかかっている。野田総理や枝野氏、閣僚が、福島県民等今回の事故の被害者そのものの立場に立てれば、原発に依存しない社会しか選択の余地はない。現に、プルサーマルという危険物を受け入れ、福島県民を裏切った左藤雄平知事自身が、「再生可能エネルギーを推進し、原子力に頼らずに、発展し続けていくことができる社会を目指します。」(福島宣言)としているとおりである。

6 即ち、原発に依存する社会を維持するかどうかは、論理(あるいは科学)の問題ではなく、感性(共感性)の問題なのである。それが鋭ければ脱原発しかあり得ないし、鈍いか、欠けていれば、利権その他の魅力に惑わされ、それを温存する方向に傾く。 そして、不幸なことに鋭敏な人と鈍感な人との間の話し合いはほとんど不可能である。野田総理、枝野氏、その他の閣僚も、自分なりの論理を持っていて、それが他人に害悪を及ぼすものだなどとは思っていないはずである。感性の鈍い(欠如した)人間は、自分自身にも騙されやすい。なぜなら、およそ他人の不幸など目に入らない、極めて狭い視野しか持てないからである。
 
7 この共感性の問題は、あらゆる問題の背景となっている。この根本を変えないと、例え原発が無くなっても、同様の問題が必ず発生する。今回の原発事故は、日本社会のあり方、人間社会のあり方そのものの変更を迫っているといえる。「変えよう日本」である。ちなみに、「共感性」とは他人を思いやる「人間性」と置き換えても良い。

    以  上
posted by 生出 at 21:36 | Comment(0) | その他

2012年05月11日

斎藤利幸氏からのメッセージ 〜その1〜

私の敬愛する写真家でもあり弁護士の斎藤利幸氏より、下記メッセージが届いた。ご本人のご許可をいただいたので2回にわけて全文掲載いたします。なお下記記事は福岡の情報誌IBに掲載されたものである。

  原発に依存する社会・しない社会

1 私は、昨年の3・11東電第1原発事故により、故郷の福島県郡山市から、現在の福岡県に難を逃れた。

2 野田首相は昨年12月16日に「発電所の事故そのものは、収束に至ったと判断される」と事故収束宣言をした。?しかし実際は、福島県民にとっては悲惨極まりない原発事故の加害者である佐藤雄平知事(それまでの栄佐久知事が反対していたプルサーマル政策を受け入れてしまい、その半年後に今回の重篤な事故が発生した。事故が起きても県民に正確な情報をださず、深刻な放射能汚染に晒し、国・県の宝である子供の避難さえおこなおうとしない)でさえ「事故は収束していない。多くの県民は不安を感じている」と反論した。

 実際、第1原発4号炉にある使用済み核燃料棒1535本は、水素爆発でぼろぼろになった建屋の2階(地上高30b)のプールに保管されており、これが崩落したり、ひびが入って水が無くなる事態に陥ると、崩壊熱により燃料棒溶融、そして極めて大量の放射性物質がそのまま外界に放出されてしまうという恐るべき事態が生じる。それだけでなく、4号炉のすぐそばには共用のプールがあり6400本の使用済み核燃料がある。この管理も不可能となって想像だにできない事態に陥る。少なくとも北半球は終わりを迎えるといわれている(http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-1198.html)。

  また、1・2・3号機については、そもそもメルトダウンした核燃料に全く手をつけることが出来ず、放射性物質も出っ放しである。この様な惨憺たる状態であるにもかかわらず「事故そのものは収束」とは、厚顔無恥も甚だしく、原発事故に対する完全な無知を世界中にさらけ出てしまった。しかし、その後の言動を見ると、無知であることすら気付いていないようで、原発の再稼働に躍起となっている。この期にいたって何を血迷っているのか、福島の犠牲を完全に無視した不遜な言動は、近いうちに手痛いしっぺ返しを受けるであろう。

 問題は、なぜこのように闇雲な原発依存に突っ走しる、その背景は何なのかであり、是非解明しておかなければならない。

3 原発依存社会を維持しようとする理屈はいろいろ言われているが、そんなことは全て表眼的なことであり、単なる衣である。衣の中身が問題なのである。それは原発の本質は何なのかに関わる問題である。

  ここでまた、原発に着せられたいろいろな衣を取り去ってみて、残るものは何か。それは人間のみならず、生命とは相容れない放射性物質を生み出し続ける存在であることである。電気などは化石燃料や、自然エネルギーでも作れるのであるから、原発の専売特許でも何でもない。むしろ発熱の3割しか電気に変換できないのであるから、極めて効率の悪いエネルギーに過ぎない。他にない特性は、極めて危険な放射性物質を生み出し続けることである。しかも、生み出された放射性物質については、その管理方法すら見つかっていないのである。

  今回の事故ではっきりしたように、人間は放射性物質については全くコントロールできない。福島並びに近隣諸県、関東圏までは、放射性物質に蹂躙されるがままである。しかも、一回性のものではなく、今後予測も出来ないような長期に渡って生命を脅かし続ける。環境に放出されなかった放射性物質も、今後10万年単位での管理が必要といわれており、我々の後世代はその後遺症に苦しまなければならない。

4 原発に依存する社会を維持しようとする人々も、原発のこの様な他のエネルギーにはない絶対的なマイナス面を、当然承知しているはずである。また、今回の福島の悲惨な事故を見て、事故における害悪の防止不可能性も分かったはずである。ことに枝野氏は菅政権の中枢にいて、事故対応に追われたのであるから、肌身を持って、放射性物質がいかに始末に負えない反生命物質であるかを知ったはずである。それにもかかわらず原発依存をやめようとしない背景は、一体何なのか。

 Mr-Saito-u.jpg 
 写真は斎藤利幸氏
posted by 生出 at 13:28 | Comment(0) | その他

2012年05月08日

オムライス


 omu-u.jpg

今晩は、なんとしてもオムライスが食べたかった。コンビニかスーパーで買ってくればお手軽なのだろうが、ここは敢えて自作することに。卵が少しよれてしまった。適量の鶏肉がなかったので、豚ひき肉を使用。ライスは、やや柔らかか過ぎたかもしれない。
子供の頃、お袋の作ったオムライスに、ケチャップで自分の名前・・・michi・・・をサインするのが最後の仕上げであった。そんなことを、ふと思い出した。今回は単なるぐちょぐちょ。味もぐちょぐちょ・・・だったかも(汗)
posted by 生出 at 22:35 | Comment(0) | 男の料理

2012年05月05日

にわか鉄ちゃん


 SL-u.jpg
撮影地へ向かう途中、喜多方市内の、とある場所に黒山の人だかりが。何かと思い、そばにいた少年に訊ねたところ「蒸気機関車が来るんだよ」とのこと。そうこうしている間に遠くから煙が向かってくるのが見えた。あわててニコンに望遠ズームを付け、ルーフキャリアに飛び乗る。そこへだぁ〜っと来た。そしてあっという間に過ぎ去ってしまった。
SLって、けっこう速いのね。押せたシャッターは4コマだった。慣れない手持ちで、構図もイマイチ。にわか鉄ちゃんとしてはぎりぎり及第点?
posted by 生出 at 21:12 | Comment(0) | にわか鉄ちゃん

2012年05月02日

車中泊


 LC77s_u.jpg

暖かい季節になり、車中泊も楽になった。やや雑然とした車内に見えるが、これでけっこう広々とした快適な空間なのだ。リアシートの背もたれを倒し、その高さに合わせた棚をカーゴスペースに備え付けている。お風呂マット、エアクッション、毛布を重ね、寝袋にもぐりこめば朝まで熟睡だ。家なんか要らないくらいだ(笑)
posted by 生出 at 08:22 | Comment(0) | クルマ

2012年05月01日

考えるひと


 those who think-u.jpg

田園風景が広がる磐梯町を走行中、偶然見つけた「考える人」らしき石像。農道の脇に捨てられているかのように置かれていた。気になって思わずシャッターを押す。

憂鬱そうな表情に何故か惹かれた。考える人というよりは、こんちくしょー!と苦りきった顔にしか見えない。ロダンの作品を真似るなら、もう少し何とかならなかったのだろうか。真似をしようとしたけど、スキル不足でこうなってしまったのか、或いはロダンの作品にインスパイアされてオリジナル作品を創ったのか・・・。創作の意図は、まったくもって不明である。

完成までには、きっとそれなりの時間がかかったはずだ。なのに、この仕打ちはちょっと寂しい・・・。
僕が想像するに、これは作者自身の姿なのではないだろうか。作者は案外、仕上がりに満足していたのだろう。しかし奥方の逆鱗に触れ、泣く泣く人目のつかない、この地に置いたのだ。奥方にすれば、旦那と同じ顔の像が庭の真ん中にでぇ〜んと置かれることに耐えられなかった。

「早く捨ててきなさいっ!」
鶴の一声である。

旦那はたまにここに来て、彼、つまり自分自身と会話を交わすのである。像の後ろに置かれたペットボトルは、そのとき酌み交わしたお茶かなにかなのだろう(かなり変色しているのが気になる)。「お前も俺も似たような境遇だな」なんて話をしたかどうかはわからないけど、僕には苦りきった表情の意味が、ほんの少しわかったような気がした。

覚えていたら、また来てみよう。
posted by 生出 at 22:39 | Comment(2) | 出逢いの妙