
自分を客観的に見ることは、とても難しいし、恥ずかしいことである。
これまでの自分の所業は、どれをとっても、まともなものはないし、できることなら「燃えるゴミの日」に、まとめて捨ててしまいたいくらいだ。
たいていの人は録音した自分の声に対して嫌悪感を覚えることだろう。毎日、誰よりもそばで聞いている自分の声。しかし再生された声は、この世の中で、いちばん醜い声にしか聞こえない。声ですらその程度の認識なのだ。
常に自分の身を傷つかない安全な場所に置こうとし、興味の赴くまま、好奇心を刺激するものだけを単に見続ける毎日。けっして自分を振り返ろうとはしない。自分のことをいちばん知らない、知ろうとしないのは自分自身なのである。
画家は自己の内面を見つめるため自画像を描く。欧羅巴には500年以上、自画像の歴史があるのだとか。自画像を描くことは、自己との対決であり、その厳しい作業に耐えうるだけの精神力も必要だ。自分を見極めたとき、きっと新しい道、表現の切り口が見出せるのだろう。
と、判ったようなことは、簡単に云えてしまう、このイヤらしさ・・・。自分を客観的に見るなんてことは、そう容易く出来る筈がない。
さて、自画像ならぬ「自写像」である。飲み会が終わり、ビジネスホテルでの撮影。鏡に映る自分にレンズを向けてみる。なんてコメントしたらいいのか、わからない(笑)
ひとつだけ、妙に得心のいったことは・・・生きている限り、何かの枠に囚われ続けるのだな、ということ。撮影時、鏡の枠の中にしっかり囚われている。明日になれば生業の枠の中で喘ぎながら過ごすわけだし、いずれ枠から抜け出すことは不可能なのだ。そもそも写真撮影そのものが、枠を意識した行為ではないか。
話は急に変わってしまうが、過日叔母に会ったところ「最近、お父さんに似てきたね」。明日は父の一周忌であった。父の枠からも抜けることはできない。いや、それはむしろ当たり前のことなのではないか・・・ようやく、そういうことを素直に受け入れられる歳になったということか。